BLOG馬場毎日 sawayaka

視界不良の馬場より金ゐ國許が綴る、満願成就三千里手前の幸福雑記

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姉と『深紅』と

「在日ベトナム人って何を食べるんだろ?」
「やっぱりフォーなんじゃない」
「ナポリタ?ン」


みたいなね。
みたいな入りはお嫌いですか



金ゐです。

嫁いで九州に暮らす姉が上京してきたので、東京駅で待ち合わせ、八重洲口近くのお好み焼き屋でしこたま飲む。「今度蠅を一匹連れてそっちに行こうと思うんだが、泊めてくれない?」と頼むと、姉は「名古屋で途中下車しなきゃ」と言って快諾してくれた。

偶然にも頭文字Sの姉は、つげファンであることを否定しているものの、弟の影響か、近頃会話に登場する単語が順調におかしくなってきた。久しぶりの会話がこうである。「あンた、【講談社のプレゼント用イラストを12年ぶりの新作だとか書いてた】けど、あれって『流刑人別帖』の豆本についてきたイラストに手を加えたものじゃない?」ほとんど気の毒な人である。

その後も『馬場毎日』への駄目出しを軸にコアな話題が続いた。【『ユリイカ』最新号】でまたも「つげ以後」がスルーされたことに怒り、今年発売予定(らしい)菅野修・西野空男両氏の単行本に喜び、大いに盛り上がった。

肴が美味いと酒が進むのは世の理。すっかり酩酊して、話は何故か【一昨年自殺した売れっ子脚本家の野沢尚(ひさし)】に及んだ。姉は、飛行機のなかで読む本がなかったから、駅の売店で『深紅』を買ってきたという。吉川英治文学賞を受賞した野沢の代表作だ。

野沢尚と聞けば、キタノファンの脳裏には『その男、凶暴につき』がすぐに浮かぶが、【『深紅』もまた映画化された】らしい。なぜ今更野沢尚なんて持ち出してきたのか分かった。姉は「隠れ北冬ファン」のくせに流行りモノにめっぽう弱いという複雑な嗜好の持ち主なのだ。

映画の主演は内山理奈だという。それだけで出来も興行収入も想像が付くが(内山理奈はどうして『食わず嫌い』での演技力をドラマや映画で発揮しないのだろうか)、ミクシィで誰も演技論を一緒に語ってくれないので続けて身内相手に三船敏郎論を展開。姉は「あンたの直感的演技論は最高よ。まったく直感的演技論がどのようなものかは、ミクシイのコミュニティに参加してみないとわからないわよ。まずは参加してみないといけないわね」……などと言うはずもなく、「うんざり」と一蹴。


「とにかく、アタシはもう読んだから、あンた(池上遼一の影響下にある)、二、三日中に読んで感想を書きなさい。

脚本家の小説なんて映像化されたものを見た方が好いに決まってるよ。

どうせ誰も読んでないんでしょ、リクエストされるなんて光栄に思いなさい、じゃあね

返す言葉もない。


『深紅』は、さすが現代作家のミステリだけあって、ページをめくるスピードの速いこと速いこと。姉と別れ、帰りの電車と寝る前の僅かな時間で読み終えることができた。高速読書は疾走感に溢れ、まるで楽器のパフォーマンスのように読むことの快楽を味わうことが出来る。それが良質のエンタメたる条件ならば『深紅』は間違いなく良質と言えるし、それだけが名作の条件だとしたら、間違いなく『深紅』は名作と言えるだろう。もちろん、私は『深紅』が後世に残るような名作ではないと思った。

裏表紙のあらすじによれば、

「父と母、幼い二人の弟の遺体は顔を砕かれていた。秋葉家を襲った一家惨殺事件。修学旅行でひとり生き残った奏子は、癒しがたい傷を負ったまま大学生に成長する。父に恨みを抱きハンマーを振るった加害者にも同じ年の娘がいたことを知る。正体を隠し、奏子は彼女に会うが!?」

生き残った奏子の視点から語られる冒頭から一転、第二章は犯人の独白から始まり、判決文へと続く。解説では、この視点転換を作家の高橋克彦が激賞している。高橋は『深紅』が受賞した回の吉川英治賞の選考委員を務めた。「二章の対比を持ち込んだだけで文句なしに受賞に値する手柄」「冒頭の章が幼い少女の視点であることをトリックに用いたとしか思えないほど残酷で鮮やかな逆転劇だ。」

確かに、そのように用いたとしか思えない、いやそのように構成しましたと一目で分かるようになっている。さすがは売れっ子脚本家と言うべきか、憎いほど戦略的で、これに比べたら、呆れるほど登場人物が多く、視点転換が滝のように続く『シンセミア』などは、ただ「整理されていないだけ」の作品に思えてくる。

が、だからといって私は『深紅』の視点転換が「残酷で鮮やか」だとは微塵も思わなかったし、逆転劇はいつも唐突で、『シンセミア』が辛うじて持つ「あんなことやられるとなにもいえません」的パワーもなく、読者の頭を無闇に攪乱する行為は不親切だと思った。

唐突さの最大の原因は、やはり、肝心の後半部があまりに弱すぎたことだろう。賞の選評においても、「前半の衝撃から思えば、後半が弱いと指摘する声も多かった」そうだ。高橋も選考段階では後半部の「失速」を認めていたが、解説では、実はそうじゃなかった、作者は速度をわざと落としたんだ、と、いやに好意的に解釈している。しかし、これは誰がどう見ても求心力が失われた尻すぼみでしかない。いや、その前に、この小説は見るべき構造があるのかも疑わしかった(プロットと構造、この二つは分けて考えられるべきものだと思う。が、やはり、詳しくはどこかで)。

だったら構造の乱れを本文からきっちり証明すべきだろうが、そうした意欲を掻き立てられるような作品でもなかった。姉のリクエストの手前書いているからだ、というのは冗談にしても、まったく、いやまったく読み飛ばす以外に楽しむ術が私には見当たらなかったのである。

修学旅行先から家族の遺体と面会するまでの四時間が「突然」ラスト近辺で蘇ってくる。この、冒頭をなぞるように繰り返される「四時間」が本作の山場となるのだが、そこで見せつけられる差異は、まさしく「戦略」以外に存在意義を持ち得ず、歌謡曲の安易なサビの変形リピートの域を一切出ない。つまり、作者の意図が終ぞ物語と結実しないままに終わりまで来てしまったため、山の表皮を傷つけずに雪だけが滑り落ちる雪崩のような状態(おお詩的)になってしまっているのである。少女の悲しみは根を張る土壌を持たず、よっていつまでも貧困な絵空事である。

さらに悪いことに、この安易なリピートが前半部の明快さを打ち消している。「悲しみ」だの「物語との結実」だの、そういった証明しようのない屁理屈を吹き飛ばすこともできないで、対応に困る「半妖怪」状態でデュルデュルしている。未だ有効か知らないが、古いカテゴリーを使えば、「純文学にも大衆文学にもなれない、哀れで可愛い我が娘よ!」。鳩よ!みたいな。

ただ、こうも言えるかもしれない。あえて解れやスカスカの構造を見せ付けることで、仮想世界に安住することに慣れ、すっかり麻痺した読者たちの困惑を誘ったのである、と。このように『深紅』はついつい意地の悪い言い方をしたくなる、それほど下品な作品なのである。本作を唯一無二の大傑作と感激し、愛読する人はそう多くないだろうが、

「もう一度記しておく。
これは奇跡的傑作などではない、と。」
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金ゐ國許たちが、単行本とかを主演しなかったの?


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