BLOG馬場毎日 sawayaka

視界不良の馬場より金ゐ國許が綴る、満願成就三千里手前の幸福雑記

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つげ義春書誌学 前書き(その1)

 企画を立ち上げてはその都度頓挫させ、頼まれもしない無償の作業を繰り返し、ある時は高圧的に、またある時は平身低頭して駄弁を積み重ね、アクセス数の増減に一喜一憂し、必要以上に媚び諂って閲覧者の困惑と反発を誘い、果てに激しい自己嫌悪に陥って、劣等感に苛まれながらも、毎日の些事を慈しむように生きていこうと思う。

 親サイトである『高田馬場つげ義春研究会ホームページ』が誕生して1年が過ぎたが、ずっと言い忘れていた。これが当サイトの趣旨であった。そして、先日ついにスキャナを購入した。最後の基礎的ネット周辺機器を獲得したことにより、いまや全ての障害が取り払われた。折角不自由なく画像を取り込めるようになったのだから、前々からやりたかった、ふんだんに画像を使ったどうしようもなくトリビアな企画をやろう、題して「つげ義春書誌学」なのである。

 つげ義春の作品評を書くのに画像は必要ない。あるいは劇中の一コマを「名シーンである」という理由のみでWeb上にアップするのは人道に反する。画像が使えて、資料的価値があり、かつ人道に反しない企画。思い付いたのが、つげの単行本や特集号の周辺を記録する企画だった。
 といっても当事者でない私には製作秘話を明かすことは不可能なので、それらを逐一画像付のリストにし、コメントを沿えて小気味よく整理していけば、タメになるし人も呼べる。これぞ一石(を売る)二鳥(師)だと考えた。
 ここで「書誌学」が適当な語なのか、私は知らない。『デジタル大辞泉』によれば、

しょし‐がく 【書誌学】
図書を研究対象とする学問。図書の成立・発展や内容・分類などに関する一般的研究と、図書の起源・印刷・製本・形態などについての考証的研究とがある。

とあるから、あながち見当はずれではないと思っている。


 さて、馬場つげ研に掲載されている当会会員の連載『つげ義春ラストシーン考』において、そこで展開される“フロイト的読解”の前提は、「つげ義春はラストに宿る」という仮説だった。私は『ラストシーン考』について批判も擁護もしないでいるが、方法論的な誤謬の有無はともかくとして、この切り口は大変興味深いものだと思う。連載が真っ当に続けば必ずや見えてくるものがあると確信している。
 また、拙文・ロケ地巡礼記『つげ義春に会いに行く』は、誠実さをいささか欠いた文章ではあるが、「つげ義春は細部に宿る」という前提に立って、幾許かの考察を加えている。こちらも『ラストシーン考』と同様に、情報を整理する意味と偏執的な確信がある。

 しかし、これから始める『つげ義春書誌学』において、今のところそういった確信は全くない。というより、正直なところ、特集号や単行本につげ義春は宿っていないとさえ思っている。
 もちろんそれらにもつげ義春の一部が宿るには宿っていて、紐解くことで作品ないし作家像に対する理解が深まるのは間違いない。なにより、時代時代においてつげ義春が如何に読み解かれてきたのかを把握するには、必要不可欠な一歩であるだろう。
 しかし、「読まれ方」という着眼の時点で別の問題への横滑りを予感させるし、それはあくまで幇助としての一手段であり、作品そのものからみて副次的なもの――何に副次的かというと、見えてくるのはその時々の「著名人・つげ義春」の商品価値であったりする――に過ぎないのもまた明らかで、仮に特集号への拘泥に作品解釈における格別の意味を見出したとしても、それは俗に言う『清水読み』であり、まさしく「物は言い様」の次元である。

 このような認識に基づいた上で、にもかかわらず、私が単行本や特集号にこだわってみたいと考え、たかだか「リスト」にこうした言い訳めいた前書きを付すのには理由がある。
 前述したように、本稿の目的は整理であり、資料的価値であり、スキャナを使用したい我が欲求の昇華でもある。「つげ義春って単行本多すぎて何読めばいいのかわかんな?い」というお茶目な問いにズバッと答える社会的使命もある。しかし、こうした不純な動機以上に、私は『書誌学』において、「今なぜつげ義春なのか」ということを考えてみたいのである。

 つげが精力的に作品を発表した時代は彼方へと遠ざかり、「つげ義春以後」に連なるべき漫画表現の系譜は、現在の社会、さらには現在のマンガ界においてさえ周縁に追いやられていると言わざるを得ない。こうした状況は『ガロ』の頃から変わっていないのかもしれないが(いかに神格化されようとも『ガロ』はせいぜい公称で最高8万部の出版物である)、ということはその間時間だけが経過したのだろうか。
 漫画全般の売れ行きが頭打ちになったことで、大手がマニア商売に触手を伸ばし始め、漫画評論は隆盛を極めるご時世にもかかわらず、なぜつげ義春は未だに「マイナー」の域を出ないのだろうか。「つげ義春以後」はなぜ影響力を持たないままなのか。そして、そのような中で当会がその「マイナー」をより「マイナー」に掘り下げようとすることに意味があるのだろうか。大袈裟に言えば、『書誌学』は当会の宿命的なトリビア感に説明をつけるため、敢えてよりトリビアルに考察してみる、一種の荒治療である。

 先に、私にとってつげ義春の「読まれ方」はまた別の問題だと書いたが、以前つげ義春の評論リストを作った際、「つげ義春はいかに消費されてきたか?商品としての『70年代論』?」とぶち上げて、「読まれ方」の変遷から消費社会論を書こうと思ったことがある。我ながら面白くて重要な問題意識だと悦に入ったが、結局書き始めることはなかった。
 「手に余った」というのが本当のところだが、もとよりその気力も湧いてこなかったのでは仕方がない。
 つまり、私が知りたいのは「社会におけるつげ義春の位相」ではないのである。私は今「つげ義春に会いに行く」道中にあるはずで、むしろ興味は「つげ作品がいかに情況と向き合ってきたのか」という、つげ義春の側にある。
 表現が完全に自律的でも他律的でもありえない、ということはわかりきったことだが、では、一応の決着をどちらの側の近辺で行うか考えた場合、私は個々のつげ義春作品を選びたいのである。(つづく)
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