BLOG馬場毎日 sawayaka

視界不良の馬場より金ゐ國許が綴る、満願成就三千里手前の幸福雑記

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田端文士村現在

田端には、陶芸家板谷波山を中心にかつて美術家たちが集い、その後芥川竜之介を中心に作家たちが集まって、「芸術文士村」の様相を呈していた―――時期もあった。予め断っておくと、当時の面影を残すのは、僅かに遊歩の出発地となるJR田端駅と地形ぐらいのものであり、街全体として受ける印象におよそ「芸術」的要素はない。

文豪たちの名が踊る観光パンフレットを見ると、あたかもファン垂涎の聖地のように思えるが、東京の、しかも山手沿線の「都市」に昭和初期が保存されているはずもなく、邸宅跡地には石碑すらない。この点では若者の街・渋谷にも劣る有様であるが(「まんだらけ」の上には竹久夢二住居跡の石碑がある)、いや、よくパンフレットを見れば丁寧に記されているではないか。

ポプラ倶楽部(田端保育園)

なるほど、恐ろしく絵の達者な人間が育ちそうである。

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写真右は、駅を出てすぐ脇にある不動坂。芥川が友人の恒藤恭へ宛てた手紙には「厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くつて路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ」とある。難渋な坂の急傾斜は依然変わらないが、芥川時代はもちろんコンクリ階段ではなかった。

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北口駅前にある田端文士村記念館。田端に居を構えた芸術家にまつわる様々の品を展示してあるのだが、立派な外観に比べて中は狭く、収蔵品の多くが複製であることに落胆の色を隠せなかった。点数は壁に写真入で掲げられた田端人の数より大分少なかったし、文士村の「王様」芥川竜之介についてでさえ(だからこそ?)、有名な河童の絵は複製、句を記した短冊は複製、直筆原稿は複製、挙句の果てに処女作品集『羅生門』も復刻版と、ある意味徹底されていた。

それでも、室井犀星が乙女の如き丸文字に驚き、田河水泡の力作「のらくろ」色紙の扱いに驚き、下島勲による題字が印象的な「驢馬」創刊号に驚いた。そういえば、先日、新聞広告で文学同人誌の復刻発売を知ったが、一冊何万(!)という驚愕の値がつけられていた。万が一にかけて、帰り際古本屋に寄ったが、勿論「驢馬」は見つからなかった。

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写真左は、文士グループ「道閑会」の会合場所、天然自笑軒跡である。道閑会の中心人物は、田端文士のパトロンだった鹿島建設重役の鹿島龍蔵であり、彼の住居も田端にあった。写真右が今回の目玉である下島勲の楽天堂医院。楽天堂医院は自笑軒跡の斜向かいに位置し、その完璧な保存状態は、外壁はおろか窓ガラスまで当時と全く同じであり、「時間が流れていないのか!」と感嘆させるほどであった。

下島勲といえば、芥川の臨終を看取った主治医として有名だが、『井月句集』を編纂執筆した研究家としてつげファンにはお馴染みの人物である(言うまでもなく『井月句集』は『蒸発』の参考文献)。伊那に生まれた下島は、幼少時、実際に井月を見知っていたこともあり、散逸していた句の数々を初めて大々的に収拾した。芥川の賞賛も手伝って、本の出版後、井月は再評価され、その名は全国に広まった。

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下島は医者ながら文学に精通し、多くの文士たちと交流した。自らも「空谷山人」と号して句を楽しみ、素人ながら書家としてもなかなか名があった。芥川の書斎「澄江堂」の文字を書いたのは下島であり、これが評判を呼んで、いくつかの全集の題字も手がけるようになった。確かに「驢馬」の題字を見るに下島の書は味わいのあるものであったが、しかし、どう考えてもあれはレイアウト勝ち、つまり室井犀星の発想が素晴らしかったのだと思う。文壇における強大な芥川効果を感じずにはいられない。

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田河水泡、小林秀雄住居跡。そうだった、田河水泡の妹、高見沢潤子(作家)は小林秀雄の妻だった。ここも当時そっくりそのままである。

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左は平塚らいてう、右は中野重治邸跡。中野重治は『つげ義春漫画術』にも登場した小説家で、「驢馬」の同人である。二軒ともほとんど変わっていない。

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まさか洗濯物まで同じとは。驚くほかない竹久夢二邸跡。

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冗談はともかく、田端文士村は昭和20年代、空襲によって灰塵に帰した。近くの公園にあった説明文によれば、そのため現在は「当時を偲ぶよすがさえ残っていない」のだが、奇跡的に今も残っているものがあった。旧芥川邸の通用門である。

「芥川の邸跡は三軒に分割された。玄関のあたりを大河内家、台所の部分を武田家、残りを蠣崎家が占めている。そして、現在も使われている三十メートルほどもある万年塀は、芥川時代のものであり、ことに武田家の使用している門は、芥川家の台所へ行く通用門をそのまま使用し、そこに備えられてあるポストも、現主人の武田良一さんが、芥川を記念して往時のままに保存しているものだという。」(『田端文士村』近藤富枝、中公文庫)

家の持ち主は三軒とも変わっており、万年塀も見当たらなかった。『田端文士村』が改訂された2003年12月20日の時点ではまだあったのだろうか、写真が古いままだから内容改訂は行われず、塀はとうの昔に失われたものと思われる。残された通用門は今にも崩れそうであった。ポストは近代的なものに代えられていた。

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ちなみに「よすが」として残されていたのが室井犀星の庭石。そんなこと言われても・・・・。

他にも瀧井孝作、萩原朔太郎、土屋文明、内藤春治、野口雨情、浜田庄司、堀辰雄、村山塊多、菊池寛、サトウハチローなど、著名文化人の邸宅跡をまわったが、これ以上ビルだのコンビニだのを紹介する必要はないだろう。もともとは「山手線バトン」用に文章を書いていて、「興味のない駅」に田端を挙げたのが文士巡りの発端だった。駅前だけ見て興味がないと書くのは性急過ぎる、通りを一本入れば案外面白い町並みが広がっているかもしれない。しかし、今回改めて巡ってみて、やはり縁遠い町であることが分かった。

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田端八幡神社
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COMMENT

もう引き払ってしまいましたが、私の母方の実家が横須賀で、芥川龍之介の下宿したところの目と鼻の先でした。そして今は鎌倉。文士の気配は意外とすぐ近くにあるものなのですね・・・

室生犀星ですね・・・

短冊を驚愕しなかった。


>田河水泡の妹、高見沢潤子(作家)は小林秀雄の妻だった。

書き間違いでしょうか??
高見沢順子=小林秀雄の妹=田河水泡の妻、ですよね。
高見沢さんの「兄 小林秀雄」とかいい味してました。

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